私の自担は海を割る

宗教という名の愛です

ジャニオタ歴10周年に際して今までのオタク遍歴を振り返ってみた

 

 
私がジャニーズオタクになったのは2007年のことでした。
 
当時流行っていた花より男子というドラマをそのときの私は見ていなかったのですが、ある日友人に
「道明寺と花沢類どっち派?!?!」
とものすごい勢いで詰め寄られたのが全ての始まりでした。
周りにいた友人(男女どちらも)たちは口を揃えて「花沢類」と答えていましたが、そのどっち派?という問いかけを投げた友人はただ一人の道明寺派でした。
当時小学生の私は子供ながらに友人を傷つけない方を選びました、
「道明寺派だよ〜」 と。
そう、これが私の半生以上に及ぶジャニオタ人生の幕を切って落とした一言だったのです。

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私を華麗にジャニオタの道へと引き摺り落とした彼。

今でも花男はたまに見返してしまいます。

 
私は真面目な子供でした。
友人にそう言ったからにはドラマを見て、道明寺の魅力を知り、友人とキチンと話ができるレベルにならねばという使命感に駆られ、母の隣で花より男子を見る生活が始まりました。
当時の私はなんせ子供向けアニメかヤンキードラマ(当時ヤンキーへの憧れが強かった)、そして母親の見ている海外ドラマ(もちろん内容なんてこれっぽっちもわかりません)ばかり見ていて、ラブストーリー主体のドラマなんてこれっぽっちも見たことがない子供だったので、朧げな記憶ながらもカルチャーショックを受けたような気がします。
そうして初めての恋愛ドラマ鑑賞を終えた私がある日、天才!志村どうぶつ園(当時の私にしては珍しく毎回見ていたバラエティでした)を見ていた時のことでした。
そう、相葉くん繋がりで嵐のコンサート映像が番組で流れたのです。
なにも考えずにぼうっと画面を見ながら母親に「相葉くんってアイドルだったんだ〜へ〜」だとかなんとか言った次の瞬間、画面に道明寺司、もとい松本潤が映ったのです。
当時の私はなんせアイドルに疎く、ジャニーズという名前は知っていても誰がメンバーでどのグループが何人組かすら知らない小学生でした。
もちろん松本潤が嵐のメンバーで、ましてやアイドルだなんてこれっぽっちも知らなかったのです。
「え?!松潤って嵐だったの?!?!」
そんな叫びが我が家に響きました。
母はさも当たり前のように「そうだよ」とだけ答えました。
正直もっと早く教えてもらいたかった。
 
そこから先はお察しの通りだと思います。
道明寺司を経て松本潤のことが大好きになった私は嵐というグループを追いかけ始めました。
まあその途中で件の友人に道明寺いいよね!という話をしたらまさかの彼女は花沢類派に鞍替えをしているというなかなかショッキングな事件もあったのですが。
そこはさておき、丁度私が嵐を好きになった時期は嵐が一大ムーブメントに乗り出した頃でしたので彼らからの供給に困ることはありませんでした。
冠番組、ドラマ、映画……彼らは様々なメディアにコンスタントに出演し続けていました。
そして2008年のことです。
私が嵐が出ている番組に釘付けになっているのを見た母が
少年倶楽部っていうBSでやってるジャニーズの番組あるけど、見れば?」
と言ったのは。
私は母に言われた通りに少年倶楽部を見ました。
これが私のジャニオタ人生を大きく揺るがすことになる出会いになるとは誰が思ったでしょうか。

少年倶楽部には残念ながら嵐は出ていませんでした。代わりに出演していたのはうら若き男子たち。
その中で一際目を惹く、トナカイの格好をしながらラップをする可愛らしい少年がいました。
そう、彼こそが私の人生初めての自担、当時Hip Hop Jump所属の田中樹でした。

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担当を降りた今見てもただの天使ですね。

そう、当時の私は中島健人担ではなく田中樹担だったのです。
コンビでいうとはぎじゅり、もろじゅりを推していましたし、風磨と仲が良いということで風磨を推していたほどには田中樹に入れ込んでいました。(実は今でも1 for youだけは完璧に歌えます)
思えば当時の私にとっては中島健人は眼中になかったように思えます。
今となっては何故もっと早く好きになっていなかったのかと悔やんでも悔やみきれない事実ですが、きっとそのときは中島健人を好きになるべきではなかった、田中樹を好きでいるべきだったんだと思います。
 
その後、ちょうどSexyZoneになった頃でしたでしょうか。
知らぬ間に菊池風磨より中島健人を目で追い始めたのは。
中島健人はJr.のころからその正統派アイドルとしての頭角を見せつけていましたから、当たり前のことだったのかもしれません。
デビューを逃したことによるHip Hop Jumpの解体により田中樹への熱が薄れてしまったことも中島健人を推し始めることになった原因だったように思います。
とは言ってもこのころはまだ担当を中島健人に定めた訳でも、田中樹から降りたわけでもなく、2012年には私立バカレア高校(バカレア組)への選抜もあり、私の中の熱の比率としてはまだ田中樹に軍配があがっていました。
そして明くる年の2013年、突然のバカレア組の解体により再びダメージを受けた私に、一筋の光明が差しました。
そう、それこそが伝説の中島健人のソロ曲、
CANDY 〜Can U be my BABY〜 でした。

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当時は神宮司くんのキャンディーアクシデントに気付かないくらい健人くんだけを見ていました。改めて見てみるとちょっと面白いですね。

初めてこの曲のパフォーマンスを観た衝撃というものは、松本潤を好きになったときよりも、田中樹を初めて観たときよりも、遥かに大きなものでした。
今まで見てきたどのアイドルよりも輝き、笑顔で歌い、踊り、その愛を見るものに届ける中島健人の天賦の才に、私の中のあらゆる想いががとめどなく溢れ出すのを感じました。
彼を応援したい、その笑顔を見ていたい、彼を、愛したい!
中島健人をこのタイミングで好きになるのはまるで必然だったかのように思えるほどの感情の奔流でした。
その時から今までの間、格差問題で少しSexyZoneと距離を置くこともありましたが、中島健人のことは応援し続けていましたし、これからも何があっても中島健人を応援していくという私の意思は変わらないという確信が持てるほど、私は中島健人のことが好きでたまらなくなりました。
こうして、今の私は中島健人担として、宗教ともいわれる程の愛を捧げ続けているのです。

何故今、このタイミングでこの記事を書いたのか?それは私のジャニオタ人生が10年という節目を迎えたこと、そして愛するSexyZoneが第2章に突入したことで、今までの自分のジャニオタとしての遍歴を振り返って文章という形にすることで、彼らを愛するということ、その意味をもう一度自分自身に再確認させたかったからに他なりません。
そして、もしこの記事を最後まで読む奇特な方がいらっしゃいましたらその方にも是非、自分のオタクとしてのルーツを辿り、彼らを愛することになった理由をもう一度心に刻み、これからも彼らと共に歩んで行ってもらえればこの上ない幸せであると思ったからでもあります。
この記事が、みなさんの過去を振り返る助けになれば幸いです。

全てのジャニオタの人生に幸あれ!